歴史、音楽、サッカーをテーマに、ヨーロッパ各国とアメリカ各州を歩いた旅の記録です。アジアも少し歩き始めました。

ヨーロッパの旅は、バルセロナやドルトムントなど有力サッカーチームの試合観戦と古代ローマなど西洋史の舞台や遺跡を巡ります。

アメリカ各州の旅は、ポピュラー音楽を楽しみつつ、その歩みや歌詞を手掛かりに、各地の文化、歴史と触れ合います。移民大国、人種のサラダボウルと呼ばれる国、アメリカ。生み出される音楽も実に多種多様です。以下はこの旅で出会った音楽です。

country music (カントリー)、western swing (ウェスタンスウィング)、roots rock (ルーツロック)、southern rock (サザンロック)、pops (ポップス)、bluegrass music (ブルーグラス)、folk music (フォーク)、mountain music (アパラチア山脈の伝統音楽)、blues (ブルーズ)、R&B、soul music (ソウル)、Dixieland jazz (ディキシーランドジャズ)、cajun music (ケイジャン)、zydeco (ザディコ)、minstrelsy (ミンストレルシ)                      (タイトル写真) Pensacola Beach,Florida,USA
     

2/03/2016

20. Acadian(アケイディアン)の流木


- 平成28年2月3日水曜日 16:00
アメリカンルーツ音楽のバンド、The Bandに "Acadian Driftwood"(邦題「アカディアの流木」)という曲がある。

カナダからルイジアナに移民するCajun(ケイジャン)の悲惨な状況をテーマにした曲。参考になるかな・・・。

歌詞を抜粋して日本語にしてみた。ネットにも訳詩があったけど、いまいち納得できなかったので。すると、彼らの苦難の道がよく描かれたとても素晴らしい詞だった。メンバーのロビー・ロバートソンの作品らしいが、さすがです。


"Acadian Driftwood"




歌詞1
The war was over and the spirit was broken
The hills were smokin' as the men withdrew
We stood on the cliffs
Oh, and watched the ships
Slowly sinking to their rendezvous
They signed a treaty and our homes were taken
Loved ones forsaken

(フレンチ・インディアン)戦争が(1763年、仏の敗戦で)終わり、心は打ち砕かれた。
兵士達は撤退し、丘にはまだ煙がくすぶっている。
我々は断崖に立ち、船溜まりにゆっくり沈んでいく船を見つめていた。
条約にサインをした結果、我々の家は奪われた。
愛する者達は見捨てられた。


      サン・ピエール(Saint Pierre)島 (カナダ)
歌詞2
Sailed out of the gulf headin' for Saint Pierre
Nothin' to declare
All we had was gone
Broke down along the coast
But what hurt the most
When the people there said
"You better keep movin' on"

(仏の領有する)サン・ピエール島に向け湾から出帆する
何も申告するものはない
財産は全て失ってしまった。
沿岸は壊滅していた。
でも最も傷ついたのは
ここを出て行くがいいと人々が口にすることだ。

歌詞3


Everlasting summer filled with ill-content
This government had us walkin' in chains
This isn't my turf
This ain't my season
Can't think of one good reason to remain
We worked in the sugar fields up from New Orleans
It was ever green up until the floods
You could call it an omen
Points ya where you're goin'
Set my compass north
I got winter in my blood

(歌詞3の舞台はアメリカ南部ルイジアナ)

いつまでも夏が終わらず、不快感で一杯だった。
(スペイン)政府は我々を鎖で繋いで歩かせた。
ここは俺の土地じゃない。
俺の季節じゃない。
ここに残る理由など考えつかない
ニューオリーンズ北方のサトウキビ農園で働いた。
見渡すかぎり緑だった。洪水がくるまではね。
どこかへ行けというお告げに違いない。
北に進路をとろう。
俺には冬の血が流れている。




1755年に始まる英仏間の戦争(フレンチ・インディアン戦争)でのフランスの敗北により、カナダのノバスコシア地方に移り住んでいたフランス人(Acadian、アメリカでは後にCajunと呼ばれた)は国外追放された。
流木の如き流浪の民となって、同胞の多いルイジアナのニューオリーンズまで大移動したが、そこでは更なる悲劇が待っていた


(ルイジアナの領有権について)
フランスの領土だったルイジアナは、フレンチ・インディアン戦争で敗戦の結果、スペイン領土になった。その後、ルイジアナは、再びフランス領となったが、1803年、ナポレオンはルイジアナをアメリカに売却した。歴史の教科書では「ルイジアナ買収」とか書かれていたよね。


- 平成28年2月3日水曜日 16:00








ルイジアナ州ラファイエットにあるAcadian Cultural Centerを訪ねた。歌詞の理解に役立ちそう!!
 

カナダ・ノバスコシア地方に入植したフランス人を指すフランス語"Acadien"が変化して、アメリカではCajun(ケイジャン)と呼ばれるようになった。

 道路名にも "Acadian" が使われる



ラファイエットを車で走ると、地元ではCajunという表記はあまり見られず、Acadienまたは英語風にAcadianという表記が使われている。



1760年代、西インド諸島、フォークランド諸島等を経由して、多くのAcadian(アケイディアン)がニューオリンズとモビール(アラバマ州)に到達した。

これほど離れた異国の土地で、一体どんな希望が描けるだろうか。スペイン政府は彼らをカトリック教徒の友人として歓迎した。彼らを未開の原野に定住させた。

受け入れでもらえただけでも、ルイジアナはまだマシだったのかもしれない。他の地域ではもっと悲惨な状況が・・・。





アメリカ東海岸にも多くのAcadianが船でたどり着いたが、入国を拒否され、多くの死者を出した。

バージニア州では、1,500名が下船を拒否され、イギリスの野営地に送還された。
ジョージア州では、100名がボートで逃げる途中に死亡、残る200名は使用人として売られた。



説明を追加
ルイジアナに着いたAcadianを待っていたのは、 木の生えない草原(プレーリー)と湿地だった。



自然火災とクレー土が木の生えない土地を造った。湾岸の草は1.8mの高さに育っていた。
彼らには、米作を継続できる土地は全く残っていなかった。













沼のカニ、ザリガニやワニを食料にした。












ケイジャン(Cajun)音楽および派生音楽のザディコ(Zydeco)は、伝統音楽やフランスのフォークソング、バラード、ケルト人の宴会ソングそして仏Breton地方の船乗りの唄などが、他の音楽との出会いを通じて発展した音楽である。





1880年代、ドイツ人がアコーディオンをルイジアナに持込んだ。


フィドルとアコーディオン
バンジョーとウォッシュボード








ザリガニのレース?とはびっくり。周囲は沼地ばかりのルイジアナ。ザリガニやワニしかいないのでやむを得ないね。
Mardi gras はCajunの行事だった。

アフリカから連れて来られた黒人たちは勿論のこと、以前訪れたアパラチア山麓に新天地を求めたスコッチ・アイリッシュや追放されてここルイジアナに入植したフランス人たち。彼らには、一体どれだけの苦難がたちはだかったのだろう。想像を絶する。

黒人たちのブルース音楽、アイルランド移民のマウンテンミュージックにフランス移民のケイジャン音楽。共通して言えるのは、彼らには独自の音楽文化があり、苦しい日々を生きる支えになっていたこと。


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